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(図8)
 

本多案の日比谷公園はどういう組み立てになっているかみてみましょう。帝国ホテルの真ん前が正門にあたる日比谷門。今はここに日比谷花壇があります。今の日比谷花壇は帝国ホテルの中に入っている花屋さん。戦後は、大体公園にフラワーショップがあるので、それをつくれと知事の命令で入れます。日比谷アメニスという造園会社がありますが、そのもとはこれです。日比谷花壇、日比谷花壇土木、日比谷アメニスとなります。最近、建て替えましたが日比谷花壇はおしゃれな建物としてグッドデザイン賞をもらいました。
そして、大噴水があって、右手に小音楽堂です。当時は奏楽堂と呼びました。軍楽隊が演奏、水曜と金曜のコンサートをやりました。ブラスバンド、これが洋楽です。
次に松本楼があります。松本楼はフランス料理のレストランです。松本楼は今も昔も小坂という人が経営しています。初代小坂氏は、当時銀座で商売をやっていて、日比谷公園ができた時入札に参加します。まだ海のものとも山のものともわからない日比谷で商売をやるというのは冒険だったでしょうね。亡命中の孫文を支援した梅屋庄吉と小坂家との関係も新聞でよく話題になっているからご存じかと思いますが、そういう心意気があった小坂家なのでしょう。洋風の食事、洋食。特にフランス料理店としてスタートします。
音楽も花も食事も、ヨーロッパのパークライフでは当たり前のことです。日本の行楽地にもその伝統がありました。江戸の気延し場所には茶屋があり、緋毛せんの縁台でお酒を飲んだりお団子を食べたり。花もあり、食もある。それが本来の公園でした。戦後日本はずっと禁欲的にやってきましたので、公園のレストランや売店は汚い、安いということになっていました。そろそろそれは卒業ですが、日比谷公園では昔からヨーロッパの公園と同じように立派な公園レストランをつくり、そして美しい花壇をつくり、心地よい音楽を聞く設計にしてきたわけです。
開国2年後、小音楽堂がバンガロー風のおしゃれなデザインで完成した。それはしかし関東大震災でペちゃんこになってしまいました。確かに柱が細い。日本のような地震の多いところでは厳しかったのかもしれません。周りからよく見えたんです。その後の2代目はコンクリートの丈夫な柱で、ゴツイものでした。今の3代目はこんなものです。
次、雲形池です。ここの鶴の噴水はいつも話題になります。暮れになると噴水につららが下がるのを新聞社は冬の風物詩として写す。雲形池の平面形は、ドイツの図案をトレースしたものですけれども、ヨーロッパのディテールはわかりませんから、全部江戸前のやり方なんです。沢庵石のような玉石を積み上げた護岸です。浜離宮でもやっています、特別のものではありません。藤棚とパーゴラを重ねた洋風デザインが効果的です。雲形地畔の東屋も一応洋風のガーデンハウスがつくられています。噴水は美術学校の先生が設計したとか。戦中は金属回収で撤去されました。ただ、噴水はどこかに隠してあったのか戦後戻るんです。そういう歴史もありました。
戦後間もなく、GHQは第一生命を司令部にしますから、一番近い日比谷公園は格好の場所です。公会堂も野音も接収されます。松本楼も接収され、松本楼の真横にある雲形池の水を抜いて、床を固くしてダンスホールにしたそうです。我々が知らないような苦難の歴史が日比谷公園にはあるんです。
第二花壇はもともと大きな運動場で、そこで国葬や国家的行事が行われました。そこの地下を丸ノ内線が通ります。昭和33年です。そして35年には地下駐車場がつくられました。そこで芝生しか植らないので、第二花壇となったのです。

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