→日建グループへ



1.持続可能社会が論じられる背景

2. 持続可能社会の2つの方向(先端技術型モデル/自然共生型モデル)

3.先端技術型の限界と自然共生型への転換

4.自然共生型モデルの必要条件

5. その実現シナリオ

6.実現のための課題

7.新たな社会への変革(技術/産業、社会/経済、価値観/倫理観)

 PDF版はこちらです→ pdf


私は、東京の都市工業社会と象徴的には言えると思うのですが、このことに絶望した。日本の統治機構に絶望的になりました。20年間お手伝いした結果として、絶望しました。したがって、何とか田舎からもう一度この国がどうなるか、お手伝いができたらと思って、箱根の関を越えたのであります。
話の中身はそれ以後、一層過激になっております。過激な話をうろ覚えの関東弁でやると一層お聞きづらい。最近、関西で結構この話が受けております。大阪弁べたべたでやると大阪弁のオブラートが話の中身にかかわるものですから、中身はすごく過激だったけれども話がおもしろかったというのが大体落としどころです。今日は、そういう意味では、関東の雰囲気の中で大阪弁がうまく出てくるかどうかわかりませんが、なるべくそういうふうにご了解いただきたい。
一番本質的なことですが、私は都市工業社会の50年間の功罪を冷静に考えました。もちろんすごい功があったことは確かで、日本人はみんなこの60年一生懸命それに邁進して、これだけの豊かな社会をつくり上げたことを誰も否定できないのですが、その副作用がとんでもなく大きくなっていることをもうちょっと直視して考えないと、この国はあり得ないだろう。地方から見ていると、地方はもう存続し得ない。現場を見ていると、10年で日本の地方はほとんど崩壊すると思います。そのことを何故放っておいていいのだろうか。
それの反動で東京がどんどん肥え太って、豊かになっている。全体として豊かさは頭が押さえられていますので一時ほどにはいきませんが、それにしても東京がなお膨れて存続しているのは、地方から全部吸い取っているからです。だから、地方がもし生き延びるとしたらどうしたらいいか、私はずっと現場でお手伝いしておりますので、ここでその話をして受けるのやろかと。はよう帰れと言われるんやないかという感じがして、今日は来づらかったというのが、長い前置きでございます。

 

1.持続可能社会が論じられる背景

(図1)
本論でありますが、「持続可能社会」というキーワードは、もう嫌というほどお聞きになっていると思います。リオサミット以来、サステナブル・ディベロップメントという言葉がさんざん言われて、世界中でディベロップメントというのはどういう実態になるのかという議論が相当されています。
この言葉だけがひとり歩きして、持続可能な企業経営だとか、持続可能な何とかという形容詞としてたくさん使われていますが、本来の意味はそういうことではなかったはずです。人類全体の持続が非常に危なくなっていることが前提にあったはずです。その最大の原因は、議論が始まった当時、地球の温暖化といいますか、気候が異常になって来つつあることにあります。人間の力で地球の気候まで変えてしまったことが、人類のこれからの存続にとって大丈夫なのだろうかという疑義から議論は始まっていると思います。
そういう前提で、この持続可能社会をもう一遍きちっととらえ直して、それを克服して新たに持続する社会をつくるとしたら、どんなビジョンがあり得るのか。それを実現するとしたら、どういうシナリオ、簡単に言えばやり方があり得るのかということを、今日は多少お話しできたらと思います。
繰り返しになりますが、持続可能ということの概念自身が物すごく幅があって、理解はさまざまです。したがって、持続可能の社会をどう描くかということになったら、途端にわけがわからなくなっていると思います。これは日本だけではなく、世界的にわけがわからない。したがって、それを実現すると言ったって、それはもう日本の技術開発をすればいいのだという単純な話から、革命が要るという過激な話まで幅が物すごくあるわけです。
(図2)
少しだけ復習ですが、私は国立公害研究所時代から日本の環境問題をずっとかかわってきた。「環境」という名前でいろいろな人が専門家と言っていますけれども、多分その第一号だったと私は思っております。東京で環境の専門家として活躍している人は、大体私が環境の世界に引っ張り込んだ。当時は、学者でも「環境なんてそんなものやったっておもしろくもないし、カネももうからんし、嫌だよ」と言う人ばかりだったのです。でもそれを、「そうは言わんと一緒にやろうよ」とか言って引っ張り込んだ人が、今、中央公害対策審議会の会長になったり、偉い人になって環境の重鎮になっていますが、大抵私よりも若い人が多い。
歴史を言えば、身の回りの環境から産業公害に移り、それが都市型公害と言われるようになったあたりまで私はずっと環境庁にて、いろいろお手伝いしてきました。さらにその周辺の自然の破壊の問題がクローズアップされ、最後は地球環境問題になったわけです。
この辺から環境庁不要論があった。「日本の努力で公害はほとんどなくなった。もう大丈夫だ。そんな役所はつぶしたらどうだ」という議論です。しかし、その後、突然地球環境問題が降ってきて、環境庁は、「地球環境で息を吹き返すかもしれない」ということが当時ありました。
地球環境問題は、最初は国際政治の成り行きの中でたまたま出てきた問題で、本当は地球環境なんていうのは深刻でも何でもないのだ、という議論がありました。今でもごく一部には、「温暖化なんてうそだ」と言う人もいます。地球は寒冷化しているのだと。どこを見て寒冷化と言ったらいいのか、私もデータ的にはよくわかりませんが、そういう論理があるようです。現実問題として、日本でも多くの一般市民は「温暖化でこういうことが起こっている。異常気象だ。雨が大変だ」ということを実感している時代に移り変わってきた。
これを何故振り返りたいかいうと、結局、身近な豊かさの追求とそれを何とか防ごうとする環境修復・保全技術がせめぎ合ったわけです。この当時は環境保全なんて言っても、「そんなものは経済が頑張ってカネを稼いで、そのおこぼれでできることだ。おまえたちは経済に足かせをはめるような環境のことを言ってはならない」という時代だったのです。
環境税の議論も実はあった。最近、ようやく日の目を見ましたが、環境基本法を最初につくったときから環境税の議論はあって、法律の中に数行書き込まれていますが、決して実施するという話にはなっていないのです。その時の議論は、「環境、環境と言って騒いで経済に足かせしたら、おまえらに回すカネなんかなくなるぞ」という話だったと記憶します。
そういう時代を経て、いよいよ空間的には地球のところまで拡大したと解釈しています。これは、私流の言い方をすれば、自らの豊かさのためのツケです。先ほど申し上げた都市工業型の社会の豊かさを実現するためにはそのツケは必ず出ます。ツケの出ないシステムはあり得ないです。人間活動はすべて、いいことをすればツケはそれに比例して出ます。それをどこかへ回すわけです。それをどんどんやってきて、最後に地球に到達した。これ以上どうするのですかという話だと思います。もし、本当に地球に行ってしまっているとしたらですよ。「いや、宇宙があるよ」と言う人も中にはいますが、それはちょっと無理があり過ぎる。
環境問題の流れで言えば、空間的にどんどんツケを広げていった。その都度いろいろな技術が言われた。最初は、低公害生産技術の議論もありました。ですが、ここに至って、CO2を減らすにはどうしたらいいのだろう。技術としては、究極のことが起こってきて、そういうことが難しいバランスの中で考えられてきたと思います。こういう復習をさせていただきます。

 


         10 11 12 13 14 15 
copyright 2010 NIKKEN SEKKEI LTD All Rights Reserved